旧東海道行脚(その7)茅ヶ崎~二宮

じゃーん♪なんと年度末の忙しい時期に時間がとれました。世間はコロナウィルスで学校は休校。職場は在宅勤務などなど、オリンピックイヤーの中で世間は混乱しております。経済ではリーマンショックを上回る景気の悪さだとか・・・。

と、冒頭は日記のように記録しました。

関口日記って知ってる?(その4)で紹介した浅海先生が生麦事件の詳細を明かした貴重な資料となっております↓

旧東海道行脚(その4)川崎〜生麦~神奈川新町

記録って大事だよね。

さてさて、今回もReliveに経路を収めましたので、先にご覧あれ↓

スタートは茅ヶ崎駅です。今日は遅くなってしまった気づけば11時近くガーンチロ太も電車が長かったせいか外に出れてスッキリ。

茅ヶ崎駅から東海道に出ました。ここは現と旧東海道は同じです。よし!行くかチロ太!!今回はQコードのPRも入れてGo!

日本橋から59km立派な家と旧ポスト。今日は天気がいいな~♪

例のごとく神社やお寺が多い東海道。

少し歩くと南湖(なんご)という地名に到着します。昔はここ藤沢宿と平塚宿の間に大きく分けて3つの茶屋がありました。その一つの南湖。この南湖は広重も書いている。東海道で左に富士山が見えるのは。ここ南湖と静岡の吉原が有名だそうです。


富士山が見える反対側には鶴嶺八幡宮の参道が松並木とともにバーーーーンと続いています。

南湖から少し歩くと新湘南バイパスと小出川に到着。ここには国指定史跡の旧相模川橋脚があります。実際に見れるのはレプリカ。ホンモノは地中に埋まっています。
関東大震災1923年(大正12年)の液状化現象で水田の地中より出現したことで発見に繋がったそうです。この橋は源頼朝が渡ったという話も伝わっています。

本流はもう少し先にあって、本流を渡ると平塚市です。
昔は河口付近は洲になっていて、沢山の川が流れていたのですね。
↓地形モデルの真ん中あたりが現在地。右端の大きい川が本流の相模川。

旧相模川橋脚でОLさんがランチをしていて、お腹すいたな~って思ってたら、チロ太と入るには丁度よそそうな珈琲館を発見

チロ太と入れる店は少ないからココでOK!カレーです。
筆者は固形トマトが苦手。チロ太は大好物。ナイス相棒!!
ドレッシングだけ除いてチロ太様に食して頂きました。



トマトを食べて、筆者の膝で日向ぼっこしながらグーグー昼寝のチロ太。
よし!午後は歩くぞ!

さあ、午後の旅再開!!時刻は午後1時。二宮に到着出来るのだろうか・・・
チロ太歩かず・・・そして直ぐに信隆寺に着いた。甲斐の武田氏の流れを汲む武田信就が創建したお寺です。

チロ太は依然として歩かず・・・筆者が痩せるために黒い荷物を背負って「えっほえっほ」歩いていると馬入橋(相模川)に到着です。平塚市入りだ~。
相模川(馬入川)は多摩川(六郷川)と同じで大河なので昔は馬入の渡しがありました。

馬入橋上にて。目先には平塚の街と富士山。左にJR東海道線。

これは平塚宿の広重の絵ですが、手前の傍示杭にこれより平塚とあるので馬入川を渡って平塚宿までの間の場所と思われる。富士山の手前の丸い山は高麗山、その先が湘南平である。

馬入橋を渡ると陸軍架橋記念碑があった。関東大震災により馬入橋は崩壊し、陸軍が架橋したことを記念して建てられたものである。

直ぐに新道と旧道の分かれ道となる。右が新東海道。左が旧東海道。
この地点に一里塚があった。ようやくチロ太が少し歩く

少し旧東海道を外れて、平塚駅から延びる商店街をぶらり。ここは七夕祭りで有名です。子供の頃、父に連れて来てもらった記憶がある凄く賑やかで活気がありましたね。夜店でオオクワガタが30万円で売っていたのが衝撃だったびっくり今は繁殖が容易に出来るようになったので、そんなに高くないけど昔は男子にとって夢でしたね~。

旧東海道を外れたのは、もう一つ理由がありまして怪談「番町皿屋敷」のお菊さんの塚があるのでお参りに。公園の一角にあります。

旧東海道に戻って平塚宿を目指します。駅から少し離れてますね。

平塚宿の江戸見附に到着しました。ここから平塚宿です。

平塚宿は旧東海道を思わせるものが少ないように思います。
それだけ近代化が進んだ場所だったって事ですね。チロ太も私も大好きな大判焼き屋を発見!あとで食べよう。

大判焼き屋さんからすぐに脇本陣跡があります。旧東海道の先に見えるのが高麗山。広重の絵にも描かれている山です。

少し歩くと高札場、本陣跡がありますが当時を思わせるようなものは何もありません。

街の旧東海道への取組として感じられたのは唯一この建物。
平塚市消防団第一分団の建物。ここは平塚宿問屋場跡地で江戸幕府において重要であった伝馬制度の継立する所があった場所である。

もうすぐで平塚宿も終わりです。高麗山の手前に信号があります。
信号で新道と合流します。それにしても高麗山は広重の絵と随分違うなあ・・・。
日本画は強調するものを大袈裟に描画して、表現力を出しているのでしょうね。

平塚宿京見附。平塚宿は今まで見てきた宿場町で一番小さかったと思います。
なぜここに出来たのだろうか?川崎宿と六郷川のように馬入川という大河の近くに宿場町が必要だったと思われ、茅ヶ崎側は馬入川の支流が多く流れ、宿場町をつくるには適していなかったのだと思います。


ここで休憩ニコニコチロ太が大判焼きの匂いが気になって落ち着きません。笑
端っこの皮だけを・・・待て!

よし!OKこうゆう時だけは良く言う事を聞くチロ太君でした

実は新道と旧道が合流する京見附から大磯町は直ぐなのです。(大磯町の看板がすぐそこに)

日が沈んできました。右へ行くと湘南平と案内板があります。
湘南平は小学校の遠足で来ましたね。山頂のテレビ塔からの景色はもの凄く良く湘南の海を一望できます。

ちなみに神奈川新聞の筆者の記事の33号点はこの湘南平の近くにあります。
https://www.kanaloco.jp/article/entry-37587.html
茅葺屋根の立派な建物を発見。

高来(たかく)神社。奥に見えるのは高麗山。「こうらい」と読むと思ってました。
「こうらい」といえば「高句麗」や「高麗人参」を思い浮かべますが、何か関係があるのでしょうね。

寺領傍示杭。お堂が現存しています。昔はここで下馬していたそうです。
凄いですね~歴史を感じることが出来ました。大磯に入ってから、雰囲気が少し変わりました♪

化粧坂の交差点。ここで新道と旧道は分かれます。左が新道。右が旧道。

地名の由来にもなった古井戸。中を覗きましたが枯れ葉で水は見えませんでした。多分、土で埋めているのでしょうね。

一里塚です。塚が残っているようですが、よくわかりません。左の木はえのき?すみません、樹木は詳しくないのでわかりませんでした。

一里塚の少し先に広重画・大磯宿の看板が見えてきました。
大磯宿は近い!

JR東海道線を潜ります。

潜った先は大磯宿。広重画はこの辺じゃないかな。先は少し右カーブになっていて、右先の看板は江戸見附跡です。

右の山こんなに近くないし・・・。今は海は見えないけど、当時は見えていたのかな。
大磯宿に到着。到着してビックリしたのは、平塚宿から凄く近かったことです!
距離にしたら2km。当時の距離では0.5里です。神奈川宿と保土ヶ谷宿の間を抜く近さです。なんでこんなに近くする必要があったのだろうか。または近くなってしまったのか。調べればわかるのでしょうけど、またあとのお楽しみで・・・

ここで再び新道と合流します。

大磯駅入口。西日が差しています。やばい!日が沈む!
ここで帰るか迷ったが、大磯宿を途中でやめるのは勿体ない!!
二宮まで頑張るぞ~!!

ほらね。町の取組が旧東海道を大切にしているでしょう。
地域密着銀行の信用金庫のシャッターも嬉しい広重画。

いづ常。創業1880年(明治13年)買い物してみたかったけど、チロ太がいるので断念

まんじゅうも食べてみたかったけど、16:30を過ぎて閉店。
ここで新道は右へカーブ。旧道は直進で細い道へ。

信号を渡ると伝馬制度でも使われた問屋跡地があります。

問屋跡地のさきは大磯宿の直角の曲道。

その先には井上蒲鉾店。創業明治11年。遊歩規程測量が完了した次の年に創業されたのですね。
ここで新道と合流。

さつまあげを土産に買おうと入店したが、完売との事。
はんぺんならありますよ!と勧められたが気が乗らなかった。なぜなら、はんぺんは私の中では練り物で好きなものランキング最下位だからです。
でも折角来たし、話を聞いているとはんぺんの刺身で名物との事。
一つから注文出来るので、じゃあ一つと思い食べたら、これがウマい!
今度、大磯に来たらまた買いに来ます!!

ちょっと軽く食べたので再スタート。高札場跡を通過。

湘南発祥の地!?え?大磯が?大磯の西は西湘でしょう?茅ヶ崎、藤沢、鎌倉は?
サザンオールスターズの影響やサーファーの影響で本当の湘南の場所を勘違いしてました。同じ神奈川在住の私も知りませんでした。恥ずかしいです。
中国の湖南省湘南の景観と似ていることから、湘南と呼ばれることになったのですね。今では車のナンバーもあるくらい「湘南」の地名は有名になりましたけど、本当は大磯=湘南なのですね。

上方見附(京見附)跡地。大磯宿も終わりです。

上方見附を抜けると直ぐに大磯の旧東海道の松並木です。
ここには樹齢300年を超える松もあるそうです。これも歴史上の偉人は見てきたのでしょうね。

伊藤博文邸。明治の文明開化後では、政府の要人が邸宅や別荘を多く大磯に構えたそうです。日本の将来を左右する会談もここで多くされたことでしょう。
東京から程よい距離で、景観が良いところは、神奈川県に多くあり昔から多くの人に愛された土地だということがわかります。

西小磯の信号。蔵があります。神奈川県で蔵が残っているところは珍しいです。
この信号機より海側へ道があったので海が見えるか20m程度歩いてみました。

う~ん。肉眼では良く見えたけど、わかるかな?道の先に海が見えます。
ここは海岸から少し高低差がありますね。

城山公園前交差点。新道は左。旧道は右。吉田茂邸は新道の左。大磯町郷土資料館は旧道の右。筆者は湘南国際マラソンを3回走ったことがありますが、スタート地点はこの先の大磯ロングビーチで、その賑わいは相当なものでタクシーはここで折り返します。

吉田茂邸も開園時間を過ぎており、入れませんでした。

仕方ないので城山公園内にある大磯町郷土資料館へ向かいます。

公園に到着するとチロ太は降りたかったようで、喜んで走っていましたニコニコ

資料館の前に神奈川県下外国人遊歩規程測量標石36号点が展示されております。

ん?上西勝也先生がツッコンでいた「規程」が「規定」になっていたのが修正されている!
誰か町に教えてあげたのかな?

36号点は蓋石も揃っており、貴重な資料といえる。標石の十字線の中心が大事であり、それを保護する蓋石は真ん中が窪んでいる。その中にヤモリが冬眠してました。

標石や蓋石を傷つけないように慎重に蓋石を戻しました。腰が痛い。
旧道は普通の住宅街を抜けていきます。

しばらくして一里塚のプレートが。日本橋から17里(67km)。神奈川宿の一里塚が7里地点なので、日米修好通商条約で定められた横浜の居留外国人の行動範囲は横浜から10里と決められていたから、単純に旧東海道の道なりの距離10里を考えると17-7=10里でこの辺りの先が行動範囲の限界だと思われる。小田原まで行動出来るなんて、到底思える距離ではない。


プレートから少し先に水準点と一里塚の説明が・・・?どっちが本当の一里塚跡地?

この辺りは旧道と新道が平行に通って先で合流します。
左が新道。右が旧道。真ん中は松並木。

新道と合流して、夕焼けの逆光富士を撮ろうと思ったけど、富士山見えず・・・

そして時間は進み真っ暗に。やっと二宮町に入りました。暗くなったので黒いワンコのチロ太は風景と同化してしまうのでバッグへ

二宮の交差点です。二宮駅はすぐそこ。

ちょっと駆け足だったけど、一里塚から二宮駅までは特に気になるものは無かったかな。そして二宮駅に到着~っと。ビール飲みたいけど今回は飲みません。
18:35 チロ太、お疲れ様でした。

次回も読まないと怒るよフフフ

(その1)日本橋〜青物横丁
(その2)青物横丁〜蒲田
(その3)蒲田〜川崎
(その4)川崎〜生麦~神奈川新町
(その5)神奈川新町~戸塚 1/2
(その5)神奈川新町~戸塚 2/2
(その6)戸塚~茅ヶ崎
(その8)1/2 二宮~入生田
(その8)2/2 二宮~入生田