旧東海道行脚(その2)青物横丁〜蒲田

今日は5月5日(こどもの日)です。

良い天気に恵まれました。

前回の終点である青物横丁付近からスタートです。

少し、通りの雰囲気が寂しくなりました。

品川宿はこのあたりまでなのかな?

品川宿は離れると神社、寺院がよくある印象を受ける。(以後、神社や寺院は省略させて頂くことが多くなります。)

品川区の道路境界標が設置されておりました。

チロ太君の後ろ足に掛っている部分が旧東海道のL型側溝の縁石部分です。

境界標と構造物に大きなズレがあることがわかります。30cmくらいかな。

通常、このような境界標はどのように決めるかというと、明治初期に地租改正事業の資料をもとに決定されております。

地租改正事業とは、一般の方にわかりやすく言うと豊臣秀吉が行った太閤検地の近代明治版です。

明治の地租改正が基本となって、地積(土地の面積)等は現在の土地登記簿に反映されています。

平成の時代になっても明治の資料が使われているんです。だから、地積が縄延びしたという言葉が使われたりします

明治の一筆地の地積は、○町○反○畝○歩の単位で表現されていました。(1歩=1坪)

道路や水路等は、○間○尺○寸の幅員の表記が公図等にされておりました。

だから、道路管理者はその幅員を確保するように境界の案の提示をします。

30cmは当時の最少単位の1尺(寸は街道などではあまり使われない。)であって、その幅員表記の精度はいかほどのものなのか?私は、きちんと整備されていない明治時代の道路が一定幅員であったとあるわけがないと思っています

しかしながら、道路幅員の根拠となるものは、公図等に記載のあるものとなっており、道路の境界を決める上では、その幅員を信じるしかないのです。

それが原因とは断定できませんが、要素としてはあるかと個人的には、思っています。

ここら一帯を鮫洲を言いますが、昔は鮫浜、鮫頭崎とも呼ばれていたそうです。

一帯が洲になっていたので鮫洲に至ったと言われています。

少なくとも海は近かったということですね。

スリーエフを左に曲がることにしました。

すぐに勝島運河に出ました。運河と言っても、昔は海だったんでしょうね。

周りを埋め立てたから、運河になった。

東京だな。と思ったショボーン

今日は暑いね~チロ太君ガーン

やはり、厚さでチロ太君も歩かなくなりましたショボーン

しばらく、歩くとここは海抜2.6mの表記が。

やっぱり、低いなあ~。広重の品川宿の絵図から見てもそのくらいの標高ですかね。

立会川付近来ました。ここのオリジン弁当でランチを買うことに。。。

立会の名前に魅かれて立ち止まった。

我々、土地家屋調査士も境界立ち会いを良くするのでねウインク

立会川の由来を少し調べてみた。↓

・その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。

・鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、その親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。

私は、小競り合いの方はないかなと・・・。小競り合いだと「太刀合川」になると思うし。

後者の方がしっくりくる。だとすると悲しい場所だねショボーン

オリジン弁当を右に曲がり立会川駅へ向かうと、

北浜川公園に坂本竜馬の銅像があります。ここは土佐藩縁の地でもあるのです。

立会川駅から勝島運河までは土佐藩の下屋敷があったそうです。

竜馬像の裏の藤棚の日陰のベンチでランチをとりました照れ

チロ太君にもおやつをニコニコ

旧東海道に戻るとすぐ浜川橋があります。

別名「涙橋」といいます。

立会川の名称の由来のなった一説の鈴ヶ森刑場へ護送される罪人の親族がひそかに見送りに来て涙を流しながら別れたことから、「涙橋」と呼ばれようになったそうです。

橋の手前を左に曲がると、

浜川砲台跡地です。

1853年にペリーが来航して、翌年1854年には、土佐藩は下屋敷のあるこの地に砲台を造りました。

この時、砲術指南の佐久間象山の教えをうけた竜馬は20歳。この地にいました。

旧東海道に戻り少し歩きましたが、チロ太君は歩かなくなってしまいました。

今日は暑かったもんねショボーン

さらに少し歩くと写真奥の陸橋付近には現東海道(国道15号)が見えて、右には鈴ヶ森刑場跡地と大経寺が見えてきました。

鈴ヶ森刑場では、天一坊、八百屋お七等の演劇などで知られた者が処刑されたそうです。

旧道が終わり、現道と重なる東海道を歩いていると、しながわ水族館が見えてきました。

今日は、こどもの日、大変賑わっておりましたニコニコ

しかし、道としては面白みがないショボーン

しばらくテクテク歩いていると、平和島周辺に来ました。

ここから、旧道と現道に分かれます。

左が旧東海道。当然、そちらを歩きます。

旧道に入りすぐに標石がありました。

そこに説明が書かれています。

この旧道900mは字(あざ)名の南原、中原、北原をまとめて三原(美原)通りと呼ぶそうです。

我々、土地家屋調査士にも深く関係する字が通りの名称になっています。

おそらく字は小字の方だと思います。

川良海苔店さん。シャッターの浮世絵?が楽しい

こちらの店にも・・・。

こちらの店にも・・・。

こちらの店にも・・・・。今日は休日店が休みで私にとっては面白い一面が撮れた。

開店していなくても、商店街の活気がわかります。

チロ太君はこの頃、復活して元気よくお散歩♪

創業1715年の餅甚さん。東海道にはこのような老舗がいくつかあるんですね。

町田半兵衛商店さんの前で再びチロ太君はバッグへショボーン

そして、写真奥には旧道の終わりである現道が見えてきました。

現道をしばらく歩くと梅屋敷駅が見えてきました。

梅屋敷駅?変わった名前だびっくり

梅屋敷公園。(梅林跡地)

駅名の由来はこれだったんですね。

明治天皇もよく来られていたんですね。

また、広重の江戸名所百景にも描かれています。

↑中央に石碑がありますが↓が復元したもので、里程標です。

昔から距離をきちんと管理していたのがよくわかります。

木戸孝允や伊藤博文もよく会合をしていたようです。

梅屋敷をあとにして歩くと京急蒲田駅が見えてきました。

東蒲田二丁目の交差点を右に曲がり蒲田駅に向かい、今日の行脚は終了です。

駅に向かう途中、呑川に鯉のぼりがたくさん掛っていましたおねがい

写真を撮っている人がいました。ゴールデンウィーク真っ最中、比較的空いている都内でした。

チロ太君もお疲れ様。暑かったね~

(その1)日本橋〜青物横丁
(その3)蒲田〜川崎
(その4)川崎〜生麦~神奈川新町
(その5)神奈川新町~戸塚 1/2
(その5)神奈川新町~戸塚 2/2
(その6)戸塚~茅ヶ崎
(その7)茅ヶ崎~二宮
(その8)1/2 二宮~入生田
(その8)2/2 二宮~入生田