旧東海道行脚(その9)1/2 入生田~畑宿

前回より一年以上が経過しました。例年ではゴールデンウイークに行脚するのですが、今年はそうはいかなかった。
6月11日に目的地である箱根関所まで辿り着きました(*´Д`)長かったー(´;ω;`)ウゥゥ

さーてロマンスカーで行きますか!

展望車のあるGSEにチロ太と乗り込みます。展望車は人気で取れないんですよ。
チロ太はバッグに入ってもらって筆者は朝食をモグモグ。リンゴを買ったのでチロ太にもお裾分け。
そんな感じであっという間に入生田駅に到着しました。

入生田駅から直ぐに江戸時代は茶屋であったお宅の前でお茶を飲んで気合を入れます。

さあ~今日は山登り。ほぼ旧道を歩くコースとなる。

いよいよ箱根町に入りました。

左に見えるのは新道。

暫く歩くと新道と合流地点になります。
そこには山埼ノ古戦場跡地の碑がたっていました。

私も知らなかったのですが、戊辰戦争の戦場となった場所だそうです。

少し新道を歩きますが、こんなオブジェもあって箱根らしさを出してくれてます。

駕籠を担いでいた人は大変だっただろうな。

ちょっと歩けば箱根湯本駅が見えてきます。

この看板の畑宿方面が旧東海道になるので橋を渡ります。

橋を渡ってすぐに下宿というバス停がありました。

宿というと間の宿を思い浮かべます。箱根は険しいから間の宿が多かったのではないだろうか。
向かっている畑宿も間の宿であり、正式な宿場町ではない。

バス停から上り坂が始まる・・・。
ちょっとで息切れの筆者。チロ太はおんぶされて悠々の旅。オマエは駕籠の殿様か!と言いたい。

湯本小学校。急勾配のところに広いグランド。造るの大変だっただろうなと思う。

そして観光地で授業を受ける生徒達ってどんな感じの子なのだろうと思う。
同じ神奈川県民でも箱根町は特別感があります。

早雲寺。

先は長いので寄るつもりはなかったが先程の気合入れのお茶が効いてきました。
ココでトイレ借ります。

面白い形の蛇口レバーでした。

わかりますか?コレ上下では無くて左右に動かすのです。左がお湯、右が水の色ですが、お湯は出ませんでした。

トイレ借りて少し見学します。



北条早雲はがダントツで長生きですね~。北条といえば難攻不落の小田原城。三国同盟。領地を関東に拡大。戦国大名の雄です。
供養塔との事でお手を合わせてお参りだけさせて頂きました。

旧東海道へ戻り少し登ると弥坂湯が見えて来ます。

地元の人は湯治場がこんなく近くにあっていいなと思う筆者であった。


町内の人はもっと安くてもいいような気がするが・・・。入湯税って50円だったの?ホテル泊まると250円取られてるよね。
調べてみましたが150円を標準として市町村ごとに金額を決められるみたいです。知らなかった~

弥坂湯からテクテク上ると白銀荘のT字交差点に着きます。

そこは江戸から22番目の一里塚跡地。

一里塚から少し平坦になって新道と旧道の分岐点に差し掛かります。

左が車が通っているので新道。右が旧道です。石畳入口って書いてありますね。
石畳かあ~楽しみ。


おお~!こんな山の中は雨が降ろうもんならグチャグチャだよね。敷石がないと歩けないよね。
アスファルトの歩きやすさ。移動速度を痛感しました。

少しの区間だったが、ゼエ、ハア、ゼエ、ハア。
やっと新道に合流。

かなり登ってきて、山間に奥湯本の宿が立ち並んでいる。

宿を見ながら歩いていると、こんなキツイ斜面を自転車で上がっていく人がいる( ゚Д゚)変態だ!!

同業者の友人でも自転車を乗っている人がいるが、きっとこんな感じの変態なのだろう。。。
私には真似できない。あ、この場合の変態は誉め言葉ですよ(^皿^)

奥湯本を抜けて登りきると少し平らになります。箱根新道の須雲川インターです。

そしてインターを抜けると須雲川集落です。立て看板がありました。やはりここも集落があるということは、立場茶屋があったのでしょうね。

集落にはレッカー屋さんが・・・。自走できなくなる車が多発する地域だということですね。
昔の車はブレーキディスクに熱を持つとブレーキが効かなくなりました。今でもドラム式ブレーキは効きが悪く熱を持つこともあります。
我が事務所の軽自動車はそうですね。

でもそれよりも、レッカーのお世話になるのが走り屋です。頭文字D(イニシャルディー)というマンガをご存知であろうか。
車で峠を攻める!暴走行為。若かりし筆者もココ箱根の七曲りにはスカイラインR33で良く来ました。

箱根は集落を過ぎると何もありません。ぽつんとお寺があったりすると目立ちます。
ここ鎖雲寺は湯本にある早雲寺からできたお寺です。

鎖雲寺をあとにして、何もない道にポツンと公衆トイレがあります。かなりキレイです。その先には女転し坂。

女転し坂の始まりは須雲川探勝歩道との分かれ道です。筆者は旧東海道を歩くのが目的なので右の車の道を行きます。


さすが女転し坂と言われるだけのことはある。かなり登ってきた上にこの急勾配(;’∀’)これは着物を着た女性は転がるワ

脚がパンパンになりながらも坂を突破!

舗装されたところを歩いているので、昔の人に比べたらまだマシ!
本当の旧道はこの山の中の道だと思われる↓

女転し坂を突破して直ぐに東京電力の畑宿発電所の入口が出てきた!畑宿はもうすぐか!?写真右前方には旧道の手摺が見える。

手摺に近づくと割石坂との看板が・・・。坂の名前ばかり、名前つけなくてもずーーっと坂じゃん。と言いたいが、それぞれエピソードがあるのでしょうね。坂を上って旧道へ。

じゃーん!!これより江戸時代の石畳の看板が!!!チロ太の足も勇む。みて下さい。この凸凹した石畳を!これを踏みしめるだけでも来た甲斐があった。こんな悪路が続いていたと思うと昔の人は本当に大変だったはず。

江戸時代の石畳は長くは続かないが、この地域はよく保存されている。これは駕籠や馬が通るのも大変。

きちんと神奈川県の境界標は設置されております。

箱根路のうつりかわりが良くわかる看板がありました。

看板過ぎて新道とぶつかります。ここに接待茶屋があったそうです。たしか明治になっても残っていたのはここ割石坂の接待茶屋だけだったはず。

新道を歩いている険しい谷があります。新道に救われ、私はこの谷を難なく通過出来ているのだろうと思いながら、旧道分岐点へ進みます。

旧道との分岐点です。箱根八里はずっと上りかと思っていましたが下りもありました。ゲッ!!登ったのにまた降りるの?そりゃそうですね。自然の地形に合わせて道を切り開きますから、下りもありますよね。

下っていくと谷間の小川へ差し掛かります。橋がありました。

小川を渡ると石畳の解説看板がありました。並木を土手の保護に使っているのはどこの街道でも同じですね。でもこの箱根の山道を整備したのは大変だっただろうなと思いました。
徳川家の権力恐るべし!

チロ太は石畳になるとご機嫌(^^)でもみてこの写真。カメラを垂直に立てて撮影したのですが、急勾配だということがお分かりいただけますか?4本足のチロ太にはなんてことない道のようです。

はい。やっぱりありましたね坂の名前。大澤坂。さっきの小川は大沢川というのか・・・。小川というより沢だったもんな。

大澤坂を登るとこんな山道に墓地!?

集落が近いのか?

斜めの排水路の看板。なるほど!と思いました。昔の土木技術は素晴らしい。険しい道のりを雨天でも通りやすく工夫しているところを感じることが出来てロマンを感じる。

看板過ぎたら、、、、
!!集落だ!この急勾配を抜けると少し平坦になる。足が進みます。チロ太は余裕w

目的地の畑宿でした。畑宿は宿場町ではなく、間の宿です。

間の宿だけど、本陣はあるのですね。そりゃそうか、朝から湯本から歩いてきたけどかなり時間がかかりました。昔の悪路だけで駕籠担いでだったら、ここに本陣ないとキツイよね。

畑宿の看板を通過~畑宿は寄木細工が有名です。ウチの子供たちも体験で作ったことがあります。今でも残っていますよ寄木細工のコースター

ゆっくり見たがそんな時間はない。日が暮れる前に登頂しなくては。

新道は右へ旧道は真っ直ぐ。分かれ道。


畑宿の端に繁盛しているお蕎麦屋「桔梗屋」さんがありました。
本日の昼食はココに決定!


チロ太がいるので店先のベンチで食べれるか聞いたらご快諾頂きました(^-^)

もちろんとろろそばでしょう。
チロ太にも少しお裾分け。
さあ、空腹を満たして午後も登山がんばろう!

前半の旅はここで終了。その9(2/2)へつづく。

 

(その1)日本橋〜青物横丁
(その2)青物横丁〜蒲田
(その3)蒲田〜川崎
(その4)川崎〜生麦~神奈川新町
(その5)神奈川新町~戸塚 1/2
(その5)神奈川新町~戸塚 2/2
(その6)戸塚~茅ヶ崎
(その7)茅ヶ崎~二宮
(その8)1/2 二宮~入生田
(その8)2/2 二宮~入生田