旧東海道行脚(その5)神奈川新町~戸塚 1/2

4月23日(火)時間が出来たので久々に旧東海道行脚再開!

前回お休みしたチロ太君も一緒に歩きます。

前回終了した神奈川新町駅よりスタート。

暫くこの広い第一京浜が続きます。第一京浜でこんなに現代化してしまった神奈川宿は宿場町の面影がありません。。。

ご安心あれ。少し中に入ると良泉寺、能満寺といった当時を想像させるお寺があります。

さらには神奈川小学校の外壁には神奈川宿の絵図が書かれております。

いいですね。こうゆうの大好きです。

神奈川宿は大変大きい宿場町で寺院が沢山あります。多すぎるのでいくつかはパスしました。これは高札場の復元です。当時は滝の川の左岸にあったそうです。

チロ太はカメラ目線を忘れません。

慶運寺にやって来ました。ここはかつてフランス領事館だったところで、浦島太郎伝説ゆかりのものが多数あることから浦島寺とも呼ばれております。

亀が台になっていて味があるな~



近くには浦島町という地名もあります。今回の出発駅の神奈川新町駅の近くが浦島町になります。またその内陸の小高い所は浦島丘という地名です。

浦島太郎は昔話ですが、この地は海が近かった事は確かです。現在の海岸線は埋め立てにより運河となって砂浜の姿はありませんが浦島太郎の話があるということは砂浜があったのでしょうね。

慶運寺を出て東海道に戻ろうとすると案内板がありました。神奈川台場跡地に向かいたいと思います。案内板から滝の川を挟んで対岸にあるのが浄瀧寺でかつてはイギリス領事館だったところです。横浜が開港されて、領事館は賑わいある神奈川宿の手ごろな寺院に置いたというところでしょうか。

浄瀧寺

神奈川台場に向かうと神奈川県横浜市神奈川区神奈川という地名に入りました。

全部神奈川で統一したいところだが横浜市が入ったのには歴史的背景があります。

神奈川宿は江戸から3番目の宿場町として海に接していることもあり、大変栄えておりました。

ペリーの黒船来航で神奈川宿を開港するよう要求された幕府は天下の東海道の要所の神奈川を開港するわけにはいきません。

神奈川湊(内浦)を挟んで対岸の横浜村を開港しました。

神奈川宿は廃藩置県により神奈川県に属する形となりましたが、横浜村は開港によって急速に栄えて、近年では日本で2番目に人口の多い都市へと成長してしまったのです。

したがって、神奈川県は廃藩置県によって神奈川宿より名前をもらって、横浜市は開港した横浜村から名前をもらったのです。その後、政令指定都市となった横浜市は区を編成する際に神奈川宿があった周辺を神奈川区とし、宿場町の中心地の町の名前を神奈川と残したようです。

その神奈川を海に向かって歩くと神奈川台場公園に到着します。

神奈川台場は勝海舟が設計した砲台場です。公園は台場まで続く西取渡り道と一部埋め立てによって造られおります。公園にはパネルがあり説明が記されております。

公園とあってチロ太も大喜び♪癒しの空間

公園をでて少し歩くと台場の石垣が残っております。

間違いない伊豆石で出来ている石垣です。江戸城、小田原城、そして外国人遊歩規程測量の標石と同じ材質です。少し赤みがかかっているから根府川石か?・・・。

今回は掲載しませんが下の写真の奥に写る高層マンションの近くにも石垣は発掘されており、そちらでもその一部を見ることが出来ます。

東海道に戻り青木町の入口(宮前商店街)へとやって参りました。第一京浜とはここでお別れです。バイバイ


青木町から奥は台町へと続く。

青木町に入ってすぐに三木組さんがありました。創業明治30年!本社はここだったのですね。昔、神奈川県建設十社の宣伝がテレビでやっていたのを覚えています。

旧東海道沿いで120周年は素晴らしい。建設会社だから、きっと歴史的資料も多いんだろうなキラキラ

三木組を過ぎて洲崎大神があります。鳥居に接する道路が旧東海道でまっすぐ延びた道先に第一京浜が見えます。ここが神奈川湊の船着き場だったそうです。

青木町も終わり、先には台町が見えてきました。ビルの谷間が旧東海道です。

商店街を出るとすぐに神奈川駅です。

線路の橋を渡ります。線路は京浜急行、JR横浜線、東海道線、横須賀線と並んでおります。

その横に国道1号線(第二京浜)があります。

第二京浜を渡ると本覚寺です。かつてアメリカ領事館だった場所で、生麦事件で血相を変えてボロデイルが駆け込んだところです。他の領事館とは違って高台にあり、港の状況が容易に把握出来る場所だったと思います。やっぱりアメリカが力を持っていたのでしょうね。

台町の入口に来ると東横フラワー緑道があります。ここはみなとみらい線が出来るまでは東急東横線が地上で走っていたところです。現在は地下に入っている為、地上は下の写真のように一般開放しております。

台町の坂が見えてきました。広重の浮世絵と同じであろう場所から撮影しました。

↑浮世絵では東海道の左に茶屋が沢山ありすぐ横は断崖の海だったことがわかります。

浮世絵に描いてある「さくらや」が現在も「田中家」として残っています。

坂本龍馬の妻のおりょうさんが勝海舟の紹介で働いていたそうです。現在も高級料亭として利用することが出来ますよ!

田中家の脇道を撮影してみました。なるほど!かなりの高さですね。昔は料亭から海に向かって釣り糸を垂らしていたというお話しも聞きます。

奥に見える看板は横浜高島屋で横浜駅が昔は海だったというのが良くわかりますねOK

田中家からさらに上って山頂付近には台町の関門がある。鶴見関門と同じ役割を果たしたのだろうが、開港後は横浜と神奈川宿領事館の中間にあるこの関門の交通は激しかったと想像出来る。

上の写真は下の写真あたりと一致するだろうか。下りの加減を見てこの場所と予想しました。

台町を下り神奈川宿の京都側入り口付近の上台橋。

ここは反町から横浜駅に向かう道路の切通しで橋を架けています。

写真は京都側から台町を望んだ方向です。

神奈川宿はかなり大きい宿場町でした。江戸後期から明治初期にかけての賑わいは相当のものだったと実感出来ました。

神奈川宿を出ると西区歴史街道と命名しているようですね。何もないですが良い試みだと思います。

この旧東海道のプレートも素晴らしい。恐らくこの横も昔は海だったはず。

てくてく歩いているとお昼となりました。近くの出張弁当屋で弁当を買います。

実はこのお弁当屋さんがお昼になると出ているのを良く知っているのです。

それはなぜか、近くに神奈川県土地家屋調査士会館が旧東海道沿いにあるからです!

筆者も会務で来たりしていますのでね。

この旧東海道に面している立地の良さを生かして、外国人遊歩規程測量の標石を展示したら、さらなる宣伝と西区歴史街道に貢献出来るのでは!!いつか実現したい!!

神奈川県土地家屋調査士会館を過ぎると直ぐに浅間下です。

東海道と横浜道の分岐点ですね。横浜村は左へ東海道は直進です。

明治初頭まではここまで海だったと思います。

現在は大通りなので歩道橋で渡ります。歩道橋の上からはみなとみらいのランドマークタワーが良く見えますね。あの周辺が開港された関内の入口の旧横浜駅(桜木町)です。

歩道橋を渡ってすぐの公園でお弁当を食べます。

チロ太も食べたそう

チロ太は朝晩2食なのでオヤツをあげました。

また頑張って歩こうね!

公園を出るとすぐに浅間神社があります。神社は高台にあって少し登りますので、パスして旧東海道を歩きます。

暫く歩くと追分というところに来ました。左直進が旧東海道、右へ行くと八王子道です。

追分から過ぎると松原商店街。ここは平日の昼間でも人がかなり居ます。

賑やかですね~

松原商店街を出ると国道16号線(東京環状線)にぶつかります。

国道16号線を渡った辺りが保土ヶ谷宿の江戸側見附跡地になります。

神奈川宿と保土ヶ谷宿は近い!!互いに京都側見附近くに一里塚があるのだから、宿場間は一里ないですね。これだけ近い宿場町はないのではないでしょうか。

見附跡を過ぎて少しすると帷子川と相鉄線の天王町駅が見えて来ます。

古代ではここまで海だったという話もあります。

その話を裏付けるかのように、ここの標高はかなり低く私が幼少の頃は天王町付近の帷子川は氾濫して道路にボートが出ていたのを記憶しています。

筆者の生まれは近いので馴染み深い土地ですよ!

天王町駅をくぐると旧帷子橋の公園に出ます。旧帷子川が流れてところで広重の保土ヶ谷宿に描かれています。

↑上の写真右に旧帷子橋が再現されております。下↓が広重の浮世絵。

同じように撮影したつもりですけど、わかりますか?

旧帷子橋を過ぎると長い直線が続きます。ここら辺は空地こそありませんが、宿場町を思わせるものは少ないですね。

暫く歩くとJR保土ヶ谷駅が見えてきます。写真左が駅。旧東海道は直進です

保土ヶ谷区宿の中心部に近づいて来ました。問屋場跡地。

シャッターに浮世絵をペイントしているなんて、品川宿以来ですね。

高札場跡地。

保土ヶ谷税務署。筆者の父が亡くなった時にこの税務署に来たな・・・。

税務署を過ぎると程ヶ谷宿お休み処に到着。無料で安めますが、チロ太がいるので中に入るのは断念。この石碑は金沢横丁道標といって、金沢八景や鎌倉へ行く分岐点であるとともに行先を示している標識です。

箱根駅伝の放送でよく「保土ヶ谷橋を曲がる」と中継してますが東海道は曲がるのですが、金沢八景や鎌倉は直進すれば行けます。

程ヶ谷宿お休み処の目の前は踏切です。踏切を渡ると国道1号線に突き当たります。

国道1号線に突き当たるとそこは本陣跡です。今も緑の屋根の通用門が残っております。

確か生麦事件後の日の薩摩の行列は保土ヶ谷宿で宿泊しているはずです。ここの本陣ではないでしょうか。今度、浅海先生に確認せねば・・・

この辺りは青年期までは良く通っていたのですけど、こんな歴史施設が沢山あるなんて知りませんでした。旅籠本金子屋です。明治2年に建て直され現在も堂々と国道1号線を眺めています。

一里塚と上方見附跡(京都側見附)があります。保土ヶ谷区宿はここまで。

大きい宿場町ですが、残存する歴史的建造物が少ないように感じます。

神奈川宿の後だったからか・・・。でも本陣と旅籠本金子屋は凄い!

保土ヶ谷宿を出ると旧東海道は国道1号線と別れます。

緑の案内板の右へ行く道が旧東海道。直進が国道1号線。箱根駅伝は国道1号線の方を走ります==3

元町の曲がりです。旧東海道は左へ。右へ曲がり保土ヶ谷公園の方へ登ると私が研究する外国人遊歩規程測量の1号点があった場所です。

元町を曲がると直ぐに権太坂の入口です。

暫く長~い坂が続きます。

チロ太!頂上が見えて来たぞ!!頑張れ!!

頂上と思いきやまだ続く。。。

箱根駅伝で難所の権太坂と言ってますが、あれは国道1号線の地名です。本当の権太坂はこちらです。

ふう~。やっと登り切った滝汗人通りの少ない住宅街が続きます。これが東海道?って思わせるくらい静かでした。

頂上に着くと暫く平らな道が続きます。そして境木中学・小学校へとぶつかります。

境木とは字そのままで境の大木があったそうです。眺めも素晴らしかったらしく立場茶屋もあったみたいですね。

境は何の境かというと武蔵国と相模国の境です!なんと昔の国境なんですね。

筆者は幼少の頃、自転車でよくこの辺に来ていましたが、国の境だとは聞いてましたが、武蔵と相模の境だとは知りませんでした。現在は保土ヶ谷区と戸塚区の境となっております。

(その1)日本橋〜青物横丁
(その2)青物横丁〜蒲田
(その3)蒲田〜川崎
(その4)川崎〜生麦~神奈川新町
(その5)神奈川新町~戸塚 2/2
(その6)戸塚~茅ヶ崎
(その7)茅ヶ崎~二宮
(その8)1/2 二宮~入生田
(その8)2/2 二宮~入生田