旧東海道行脚(その8)1/2 二宮~入生田
2021年4月6日(火)
旧東海道行脚・・・1年が過ぎました。
コロナの自粛続きで行く事が出来ず見合わせておりました。
緊急事態宣言が解除され、今しかないと思い二宮駅に向かいました。G.W.はまた緊急事態宣言が発出されるのではないだろうか・・・
それはさておき二宮駅に10時頃到着。
チロ太は電車の中に1時間半。もう出たくて仕方がない。 笑
さあ、1年ぶりの出発~!吾妻山を右手に東海道をゆく。
吾妻山は神奈川縣下外國人遊歩規程測量で大変重要な地点であります。
ここの発掘調査が進み新聞にも掲載される運びとなったのです。
発掘調査の様子(一部)
神奈川新聞記事
https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-37587.html
このあたりは現道と旧道が一緒ですが松林が旧東海道の雰囲気を出してくれています。
旧東海道行脚をするキッカケとなったのが神奈川縣下外國人遊歩規程測量の研究だが、そもそもそれはなんだ?
というと前のブログにも書いているが、明治初期に横浜に居留していた外国人が日米修好通商条約によって、行動範囲は10里(39.2km)と決まっており10里はどこだ?となったわけだす。でもって大久保利通の命により近代測量を行ったのが始まりです。
その近代測量で横浜から10里地点が吾妻山周辺なのです。
私は発掘調査と測量を行っており、旧東海道で10里地点の目星はつけており、その地点がこの写真にある日本橋から74km地点我妻山入口の少し先になります。
そこから少し行くと吾妻神社入口の信号が見えてきます。左が新道、右が旧道の分かれ道。もちろんチロ太と右へテクテク。
梅澤橋という石碑があります。明治9年の実測図(神奈川縣下外國人遊歩規程測量の補助点の点の記のようなもの)に川と橋が載っており、そこに橋があったのだなと想像できます。
今は川は見えません。暗渠ですかね。
中心に梅澤橋、右上に吾妻山、右の東海道上に十里点の表示があります。
この他にも補助点が数点記載されているのですが、この実測図記載のM4点については位置が間違っているのが筆者の計算でわかっております。
これだけ精工に作られても間違いはいつの時代にもあるんですね。
梅澤橋から旧川の道でしょうか東海道新道と海が見えます。昔は海がバッチリ見えて景色が良かったのでしょうね。
そして海が長い旅路の旅人の心を癒してくれたのでしょうね。
その後も快調に歩き等覚院を通過。普段のお散歩は、こんなに快調ではありません。
普段はこんな↓なので、あっち引っ張たり引っ張られたりで、もな花とちゃ丸がいないだけでかなり楽チンです。
等覚院を過ぎると新道と合流。
大谷石製門柱の立派な古民家がありました。
大谷石は丈夫で加工がしやすく、コンクリートが普及する前はよく使われておりました。
ただ経年劣化はあり、表面を加工すると平らで綺麗になるのですが、劣化が進むとボロボロと崩れてきます。
今の時代の流れに合わせると筆者個人の考えでは、大谷石は塀ではなく敷石に使うと味があってよい見栄えになると思います。
しばらく歩くとまたまた新道と旧道に分岐。左が旧道、右が新道。
旧道に入ってすぐに一里塚があります。ここではチロ太は既に歩かず。
この一里塚は明治9年の実測図にも記載されています。
一里塚から少し歩くと本陣跡があります。ここは大磯宿~小田原宿間が長いので間の宿となっており本陣がありました。
ここの地主・和田家には「御休帳」なるものが保存されていれ重要文化財になっているそうです。
「御休帳」見てみたいな・・・
右下には補助点M5が記載されています。
本陣跡を振り返ると吾妻山が見えます。昔から一つの目標である山だったのでしょう。
存在感がありますね。
本陣跡を過ぎて押切坂を下ると新道と合流します。
押切橋・中村川。橋は昔のままで川の名前は押切川から中村川に変わっています。
なぜだろう?
左には西湘バイパスと海が見えます。
押切橋を過ぎてすぐ小田原市に入りました!
そしてまた二宮町??
ん?また小田原市!?
そうここの地域は土地の変革が複雑です。標石43号点が実は近くにあるはずで、資料調査をした時に複雑だったのを記憶しています。
ちなみに資料調査時の旧地図には旧東海道の幅員は5間(9.09m)との記載がありました。
↑橘インター入口を過ぎると難所・車坂です。京方面へは真鶴半島も見えて景色が素晴らしかったことでしょう。江戸方面は上りになっており、まさに難所です。
車坂は古くから詩になっていたのですね。太田道灌や源実朝が詩っています。
ここから国府津駅までは特に何もありませんでした。
途中どでかいマンションがあったけど・・・。(あれだったら津波が来てものまれないな。)
そして、ただひたすら歩く!背中の黒い荷物を背負って。。。
やっと国府津に到着。
国府津駅からは、終着地・箱根の山が見えました。
国府津(こうづ)は読んでそのまま相模国府の港(津)があった場所だったので、そのまま名づけられました。
駅前から小田原方面は少しお店が並んでおります。その中に真楽寺があります。ここ真楽寺でお昼になったので隣にあるCafeマシュマロさんでランチをとることにしました。
例のごとく筆者はトマトが嫌いなのでミニトマトはチロ太へお願い。
腹ごしらえも終わり、チロ太歩くぞ!
このマンホールは小田原市内であることを思わせる。
小田原宿まで頑張ろう!!
東海道の松林とガストがミスマッチ(笑)
小八幡の一里塚跡。看板しかない。
この辺りで富士山を見るのは限界か・・・。
立派な松林と箱根連山
大見寺
酒匂不動尊
法善寺
本典寺
神社や仏閣が多いということは何かあります!そう大河・酒匂川です。
日米修好通商条約ではここ酒匂川東岸(江戸側の岸)までが外国人が通行してよい範囲でした。
法船寺近くに傍示杭が建てられており、そこが測点60号になります。
土地開発によって酒匂川は見えませんが、この辺りに60号点があったはず・・・。
傍示杭の位置と60号点が正確に一致しているかは、まだわかっておりません。
と個人的には思ってます。
明治初期の外国人はここまでしか来れませんでした。箱根には行けたのかな?
今回のブログはここまで。
次回は酒匂川を渡り小田原宿へ向かいます。
次回も見ないと怒るよ。フフフ。
(その1)日本橋〜青物横丁
(その2)青物横丁〜蒲田
(その3)蒲田〜川崎
(その4)川崎〜生麦~神奈川新町
(その5)神奈川新町~戸塚 1/2
(その5)神奈川新町~戸塚 2/2
(その6)戸塚~茅ヶ崎
(その7)茅ヶ崎~二宮
(その8)2/2 二宮~入生田