神奈川縣下外國人遊歩規程測量~番外編~日本最古の境界標の採拓
令和2年12月1日9:30
北条早雲公の像が見守る中、今日は太閤秀吉の一夜城(石垣山城)へ加藤清正の石場を示す刻印がある標石の拓本を取るため、小田原駅西口に一行は集合した。
一夜城周辺は、神奈川縣下外國人遊歩規程測量の標石にも使われている伊豆石の産地である。その伊豆石を使って、一夜城は築城されたのである。伊豆石とは箱根火山で出来た安山岩であり、丈夫で加工しやすく江戸城の石垣にも使われている。
意気揚々と一夜城へ向かい目的の伊豆石にやってきた。
写真中央が目的の拓本をとる伊豆石である。
なお、周辺は遺跡指定されており許可なく掘削や加工等をしてはならない。
今回は、神奈川縣下外國人遊歩規程測量の研究の一環として特別に採拓の許可がおりたのである。
吉野先生の指示のもと一行は採拓の準備に取り掛かる。
拓本をとる為の墨作り。せっせ、せっせと寒い中すずりました。
伊豆石の大きさを計測し記録します。
表面を綺麗にしました。洗浄にはカルキ抜きの水を使用します。遺跡なので少しでも酸化を防ぐ為です。
拓本を取る和紙の設置完了。水で湿らして接着して柔らかいブラシで叩きます。
ブラシで叩くと溝の部分に和紙が入りこみますグッド!
叩き終わったら、乾くまで待つ!
待っている間に市役所の職員の方に記念撮影をして頂きました!
ありがとうございます!!
和紙が乾いたら墨入れです。吉野先生が自作のタンポで軽く墨を付けて丁寧に「ポンポン」と叩き墨を付けていきます。ほらほらビックリマーク字が浮かんできたでしょ!?
字が逆さになっているので、この伊豆石は元々ここにはなかったもので運ばれて来たか転がって来たかですね。
吉野先生が旧崩し字を横に書いて解説してくれました。
写真だと見えづらいので↓見やすく画像を編集しました。(無断複写禁止)
「此石可き左右、加藤肥後守、石場」と刻印がされております。
加藤肥後守とは加藤清正かその子の忠広を指します。
清正は築城の名人でした。ここの石場も刻印をするくらい貴重で重要なものだったのでしょうね。このような刻印をされたものは全国にいくつか点在しますが、大大名が境界を示す刻印をされたものは数少ないでしょう。よって、勝手に暫定日本最古の境界標に認定します。
現在の境界標は十字マークだったり、矢印マークだったりで境界点を示しますが、戦国時代ですから、そこまで精度は必要ありません。この刻印石も立派な境界標です。
現在もそうですが、境界紛争予防には境界標を設けることがひとつですね。
採拓が終わりましたら、きれいに復旧して完了です。
お疲れ様でした!
近くに伊豆石の産地である早川石丁場遺跡があるので、一行は見学して帰ることにしました。
上には新道が・・・。
伊豆石に凸凹した溝があるのがわかりますか?
これは矢穴といって、石を切り出すのにクサビを打って切り出すので、その時に出来る痕跡です。これが江戸城まで運ばれていました。そして勝海舟が設計した神奈川台場の石垣も伊豆石です(神奈川台場については↓参照。)
神奈川縣下外國人遊歩規程測量の標石もここを産地としたのかな?ロマンが眠っております照れ
そして凄いのが「石引き道」!!現存しております。
わかりますか?樹木の間が溝になっています。ここで牛に石を引かせて運んでおりました。
古い文献に絵があります。
一夜城と早川石丁場群は大変興味深い遺跡でした。
旧東海道からは少し登るので、「チロ太」との寄り道からは除外して、番外編として記録しました。
次回は「チロ太父になる」を書いていこうかな~っと思ってます。
ではまた。